Shuya Okazaki / Blog✔︎

1997年 岡山県 岡山市生まれ___ | I trust my process /Okayama/Niigata/Tokyo&Kamakura✓

何も見えなかった / 4月~5月

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いつか時間が解決してくれる。

それを待っていた。

壁にぶち当たった時、

どうしようもなく先が見えない時、

表面的にであれば、たとえそうだとしても、

時間がそれを解決してくれることはよくある。

それが今この時期(とき)ばかりは違った。

言葉にする必要があるのか。それもよく分からない。

言語化とかアウトプットとか

そういうのではなくて、

う◯こ と同じ。つくるというか、出す。  甲本ヒロト

そんな感覚。

周囲に自分という人間が理解されていない、

何も共有できない孤独があるのかもしれない。

そう感じる度にこうやって

いわば「虚構」の世界に逃げているのかもしれない。

いつしか自分にとってSNSやこのブログが

インプットやアウトプットのツールから

そういう存在としての意味を持つようになった気がする。 

それなら俺は今すぐ手を止めるべきだと思う。

本当に「それだけ」のものなら。

本当は分かってる。

「周りに理解」されていないのではなくて、

「自分が表現」できていない。

そしてこれが「表現」だとは思わない。

ピッチとそこにいる人を前にした時の

プレーであったり、言葉であったり、行動、姿。

それこそが 表現 。

ただ、今はせめて何も感じなくなる前に、

虚構で良いから残しておきたい。

いつかその虚構を現実にしたいから。

今ここ(新潟)でのありのままを残しておきたい。

全て置いて前に進みたい。

◆目次

各々(自分の中でしか)繋がってないものを一気にまとめた。

 現状

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「それはお前の理想だろ。言ってることは分かるけど…
  でも、それはやろうと思える理由にはならない。」

簡単に分かってもらった訳ではないだけに

それが行動に繋がらないという現実には

無力さと同時に大切なことを教えられた気がした。

「理想を変える勇気を持て。

   結局他の75人のメンバーが不幸じゃないか。」

俺の役割って何なのか。

最後に分かるもの。本当にそれだけでいいのか。

正直分からない。後から美化するのは簡単。

「それを全部やらせるのがお前(部長)だろ。」

監督の言葉には正直いろんな葛藤がある。

ただもう後に引けない。

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今月 12日 新潟県予選天皇杯決勝 

(vs新潟医療福祉大学 0-3)

4年前(2015年)の高校3年の夏。

練習参加の後、新潟から岡山へ戻る前に

経大の天皇杯の決勝をスタンドで観た。

スタンドの応援組は終始だるそうだった。

チームは1-3で負け。

ここに入ったら根本的に何か変えないと…そう思った。

心から応援し応援されるチームでなければ勝てない。

何より組織として続かないことを知っていたから。

あれから4年。 あの日と同じ天皇杯の決勝のスタンド。

ただあの日とは全てが違う。

自分がこのチームの選手であり部長ということ。

準備、雰囲気、結果。全てが自分ごと。

当事者以外何者でもなく、自分に原因がある。


「俺0-3に賭けてるからこのまま終われ。」

後ろの方からそんな声が聞こえてきた。

ボコボコに殴り殺したいはずなのに、

言葉が出なかった。

目の前で起こっていることも、

その時の自分も、

全部嘘であってほしい。 そう思った。

 

「落差」

何も結果が出せていない。

もうそれだけの話で。

だったらやれよと自分でも思う。

やってる。

そう言いたい。

ただ何一つとして結果がでない。

だからそれをやってないということ。

それも分かってる。

そもそも残してきた結果、

就活でも腐るほど聞かれる

「あなたが成果を出した経験は何ですか?」

そんなものが俺にあるのかも正直分からない。

常に周りや仲間に引き上げてもらってきた。

 

成功と成長はよく語られる話だけど、

その成長の「秤」ってなんだ。

何をもって成長を実感すればいい?

目に見えるカタチがなければただの自己満じゃないか。

小さな成果もなく、評価してくれる人もいなければ、

そういうことじゃないか。

選手としても、チームとしても。人間としても。

 

何か意味があったのか。あるのか。

 

このただ否定の連続の日々に。

リーダーは孤独というけれど、

その孤独ってそんなに正しいのか。

自分自身を含め誰一人幸せに出来ていない。

いろんな面で場違いな人間だということはずっと感じてる。

ただ散々偉そうなことを言ってきた。立場もある。

何よりこの新潟での大学サッカーの道をこのまま終わらせたくない。

だからもう後には引けない。

実際それが一番大きい。

本当はここに一番大きな理由としてあるべきものは別にある。

寝ても覚めても考え続けて、

何が何でも叶えたい何か。

狂気の日々。血の通った時間。それを共有する仲間。

「全国に行きたい」一心で入った高校と

「チームと自らの変化」が目的だった?大学。

そう割り切れば楽だが成長はない。

あの日の決断やその根本が問題なんじゃない。

今、ここにいる自分。実際はそこだけ。

この今の想いを残したところで何になるのか分からない。

俺は今の自分とチームに向き合わなければいけない。

ただ、

理想と現実のあまりの大きなギャップを前に、

これまでの計画は一体なんだっなのか。

そう思わずにはいられないところがある。

このブログやFacebookで書いてきたことも、

"ただこう思いたい自分"

"こう捉えている自分でいたい"

というもので事実じゃない。結果じゃない。

実際の俺は何も変えられず、その事実に正対しきれていない。

ここにあるのはやっぱり虚構の自分かもしれない。

それでも、

その虚構を現実に変えていきたい。

まだそう思えるし、それを信じられる。

この今の現実が結末ではないと。

だから今、「過程」を残してる。

現実を直視しながら理想を持ち続ける。

そういう強さ。

 

「Life is what happens to you ,while you are making other plans.」

-人生とは何かを計画しているときに起こる

それ以外のことをいう。-
                                                星野道夫/写真家

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「こんなはずじゃない」とか思いながら

実はそれこそが自分でそれこそが自分の人生だった。

後になってそう気付くことにはなりたくない。

この言葉を聞いた時にそう思った。

同時にチャンピオンズリーグの準決勝を見ながら

それが高校のサッカー部の恩師のある言葉と重なった。

「サッカーとは

自分たちの関与できない条件と向き合う、

理想と現実の落差に対する心の耐久心を高めるスポーツ。

そしてそれは人生そのものだ。」

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「サッカーとはどういうものか。」

今自分のその価値観に違和感や変化がある中で

これはどちらかと言えば「これまで」のもの。

ただ、

「俺はもっとやれる。」

「俺にとってのサッカーはこんなんじゃない。」

そうやって逃げたり、

割り切ろうとすることに言えるのは、

今の評価であったり、今のチーム、今の現状。

それこそが俺であり俺にとってのサッカーだということ。


嫌なら、変えるしかない。

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「Connecting The Dots」                  

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平成が終わった。

新たな時代が始まった。

時代が変わっても俺もチームも社会も…

身の回りにある現実は

何も変わらない。変わり続けていることを含めて。

時代の名前が変わった。

言ってしまえばそれだけの話。

改元の話題で持ちっきりの世間を少し遠い目で

見ていた人たちも多分そう思っていたんだろう。

ただ確かなことは 大きな節目であること。

この「時代に名前を付ける」というのは美しい文化だと思う。

時間は止まることなく常に流れ続けている。

その時間にあえて区切りをつけて、

時代という枠に収める。

時に「あの時代は…」と振り返れば、

「令和こそは…」と何かを始めたりする。

本当は何も終わっていないし、

何も今始まった訳じゃない。

一度始まった時から全て一直線に繋がってる。

それでもあえて一つの時代を終わらせて、

また新しい時代を始める。

それぞれの日常や生活は何も変わらないのに

「時代」やその「終わりと始まり」に

人がここまで影響を受けるのはそれなりの理由がある思う。

生まれたその瞬間から死ぬまで、

一人ひとりの時間は止まることなく流れ続けていて、

過去に起きたこと今起きていること未来に起こること

それらは全部 繋がっている。

それでも、

 

     その間に幾度となく点が打たれる。

 

猛烈に何かに没頭していた日々がいつの間にか

「あの頃」になっていたり、

それでも描いた夢や理想も

冷たい現実を前に終止符が打たれたりする。

それでも「昨日までの俺じゃない」と

過去に自ら点を打って前に進むこともできる。

ただその一つ一つの繋がりは全くというほど見えない。

見えない時こそ苦しい。

今まさにそうなのかもしれない。

それでも一度始まったその瞬間から終わるまで

全ての点は繋がっている。

打たれた点、自ら打った点、未来に投げた点。

その一つ一つが全て繋がっている。

今は分からなくても。いつか繋がる。

 

「Connecting The Dots」(S.Jobs)

その時、あの日々あの経験があったからと思えれば…

すべての出来事に意味がある。

 

そう思うことでしか太刀打ちできない今。

 

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仕事観 -就活の中で-

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今まさに平成から令和の時代の変化と共に

その在り方は問われつつある中、

俺自身は既存の文化や風習、

ルールやシステムの下の「就活」の真っ最中。

Facebookでも書いたけど、

「就活」とか「自己分析」って何なんだろう。

このいかにもで ありふれた疑問について考えると

根本にあるべきはそれぞれの「仕事観」だと思った。

それはほぼイコールで「仕事とは何か」という問い。

 

「働き甲斐」や「好きなことを仕事に…」

などと叫ばれる今日の日本では

「仕事のために生きている/ Live for Work」

でもなければ、さらに言うと

ただ「生きていくための仕事/ Work for Live」

という意味さえ薄れているように思える。

本当に豊かで恵まれた時代と環境のおかげで

そんな色が強くなっていると思う。

俺自身そんなことを抜かせる状況にあることは有難い。

当たり前じゃない。

ただ、仕事というものの存在が

 

「人生としての仕事/ Work as Life」

 

そんな風に変化しているように思える。

というよりそれが本来あるべき姿なのかもしれない。 

仕事(Work)と人生(Life)のどちらが大切か?

そもそも二つはそんな二者択一の関係のものなのか。

仕事は人生の一部だが人は人生においてその仕

事いうものに圧倒的に多くの時間と熱量を捧ぐ。

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だから俺は仕事と人生を分ける生き方をしたくない。

何年後にこれを読んでも「青いな」と思わない自分でいたい。

 お金や会社ができる前のもっとシンプルな世界では、

一人ひとりが生む価値が自然と共有されて

社会としてもバランスが保たれていたんだろう。

それは例えば、

狩りする人、家を建てる人、モノや情報を届ける人…

色んな場所や色んな人たちの間で

「ありがとう。じゃあ今度俺が…」

みたいなことが繰り返されていたんじゃないかと思う。

さらには、

何歳までは教育を受けて、その後は働いて、後は余生。

そんな年齢や世代の枠もなくて、

全ての世代の人が全ての世代の人を支え合って生きていたはず。

− 巣立った後にしばらくしてまた面倒みてもらう動物はいない。人間は動物です。−Yong supporting All ではなく、All supporting Allが本来の人間のあるべき姿ではないか− APU(立命館アジア太平洋大学)学長の出口治明

若い時に勉強してその後働いて老後の人たちを支えて…

今、このサイクルに反して

人生100年時代」や「リカレント教育」が叫ばれ、

人生の在り方が問い直されているこれらの議論は

全く新しい場所に向かっている訳ではないと思う。

(ヘーゲル弁証法「事物の螺旋的発展の法則」)

今日の日本は高齢化が悩みになるほど健康。

そして世界3位の経済水準にある。

それだけ身体や環境やモノが豊かでも、

幸福度は今年は世界で58位。何年後退している。

「働く」ということや「仕事」についてはどうか。

昔と比べれば圧倒的に選べる自由があるのに、

15年以上3人に1人が就職後3年以内に辞めている。

転職や独立へのマイナスイメージや

その事実をそのものを否定する意味は全くない。

(なんなら自分も通りそうな道だし。)

ただ未だに理由の多くがネガティブなものなのも事実。

昔と今で大きく違うのは

一人ひとりに「情報と選択肢」が大量にあること。

そこには「自由」と「責任」が背中合わせで存在する。

そして今、

多くの人が自由を感じず、責任から逃げていると思う。

先の例で挙げた昔の人たちには

自分の職業を選択する「自由」がなかった。

その反面「自分で選んだんだから…」という

「責任」もなかったと思う。

それが幸か不幸かは分からない。

それこそが肝心なところなんだけど…自分次第だろと。

「society5.0」や「5G」や「AI時代」…

さらに飛躍的にモノや環境が豊かに進化すると言われている。

自分の興味のある分野においては、

「人と企業」「人と人」「人と場所」のマッチングも、

AIやビッグデータの活用によって

より正確な適性が成されていくはず。

ただ、断言できるのは

それだけでは人は満足しないし、幸せは増えない。

「この会社だ!」「この人だ!」「この店だ!」

とはならないと思う。

理由は、

今だって昔と比べればモノや環境は飛躍的に豊かになった。

職も企業も人も場所も圧倒的に選択肢が増えて世界に広がった。繋がった。

それでも人が感じる幸せや喜びであったり、

働き甲斐は増えていないから。

事実が変わっても実感が変わってない。

 

俺の仕事は何か

何が言いたいかというと

「就活」や「社会」に身を置く中で感じたのは

どれだけ環境そのものやマッチングが変わっても

一人ひとりが「あるもの」を持っていないと何も変わらないこと。

それは「昔の時代を思ってもう少し幸せのハードルを下げよう」そういうものじゃない…

それはいつどこにいても変わらない

「自分の仕事」

そしてそれを明確にすること。

どの職業とかどの企業とかそういう次元じゃないもの。

職業や立場が変わっても「自分の仕事」は変わらない。

それを「夢」とか「使命」とか「志」と呼ぶのかもしれない。

職業や会社が変わっても変わらない自分の仕事。

今みたいな学生であっても、

老後になっても変わらず向き合っていたいもの。

それは何かということ。

有名な人を例に挙げるまでもなく、

俺が思うカッコいい大人は「自分の仕事」をそんな風に語る。

職業としては語らない。それはそれで「プロ」として語る。

これが定まらない以上、

どこの会社に入っても、いくら職を変えても、

大学院に進学しても、起業しても

深いところでこれだ!という実感は持てないと思う。

就職も転職も起業もまだしてないから

まだ自分の中の仮説に過ぎない。

別に途中で変わっても良いと思う。

どうせ後からそれぞれの意味は繋がる。

ただ今この瞬間、

身の回りや家庭や街や社会に対して、

もっとこうあれば良いのにって思うワクワクでもいい。

これだけは放っておけない、そんな使命感でもいい。

そのために自分に出来ること。

出来る自分になるためにやりたいこと。

逆にそれさえ定まれば、

どこに就職するにしても起業するにしても、

それらは全て手段だとうことに気付く。

企業や人を選んで全く別のことを語ることもしなくていい。

自分にはいつどこにいても変わらないもの。

「自分の仕事」人生かけて登りたい山があって

それを 御社「なら」 こんな風に実現できて、

これまでの経験やこれからの経験は

全てそこに繋がっていることを伝えればいい。

それが他の場所なら切り口や登り方が違うだけで

目的は同じだということ。

会社や人よってそれぞれに上手く語ること、

スキルとしては必要でも、俺はそれ以上に

「同じ夢(目的)を使い回す」

その方がよっぽど大切で筋が通ってると思う。

 

「じゃあお前の仕事は何なのか」

そう突っ込んでくれる人がいたらこう答える。

「次世代のために今やるべきことをすること」

それは学芸の頃も、今も、この先も変わらない。

常に今いる場所は

「先人に受け継いだのではなく、

                             次世代から借りている」

その上でやるべきことを定め、行動すること。

そのために学び続けること。

「子どもたちに夢を!」

俺もこの山を登りたい。

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答えとして

結論そういった意味では

「就活」も「自己分析」も

「そういう時期だから−」やるようなものじゃない。

もっと広くて大きいもの。

「自分の仕事」「自分は何者か」

そういう自分への不変的な問いだと思う。

何も常にすべての物事を人生という枠で捉えて

松岡修造スタイルで生きるべきだと言うつもりはない。

シンプルに相当疲れると思う。

(かくいう俺がそういうタイプだから分かる。笑)

ただ…

これは自戒の念を込めてだけど

世の組織もそれぞれのキャリア選択も

あまりにもその場しのぎの決断が多いと思う。

楽なのと楽しいのは違う。

今がいいのと今さえよければいいのも違う。

過去に決断によってつくられたのが今で、

今の決断によってつくられるのが未来だから、

常に決断は過去 現在 未来で捉えて行うべき。

その上で「今」にとことん没頭できれば最高だと思う。

Carpe diem 「今を生きろ」

というのはそういうことだと思う。

 

今回ばかりはもう少しロジカルにまとめたかったけど

結局は熱い話に還ってくる。そこで落ち着く。

でもその''結局''に至るまでの過程が大切。

それがこのブログの意味でもある。

この頭と親指の疲れの意味。

何より、

この結論こそが自分を猛烈にモチベートしてくれる。

それでいい。それがいい。

 

最後に −逆境に感謝−

こんな真っ暗な時に、だからこそ、

支えになってくれた存在へ。

ありがとう。

当人はそんなつもりじゃないんだろうけど、

何気なく話たり、たまたま連絡をくれただけだとしても

それが光だった。

もはや それに気付かせてくれた暗闇にも感謝。

昨日はその一人の22歳の誕生日。

自分で言うのも違うけど

 こんなにも俺が俺と向き合っても

いつも俺より俺のことを知ってる、

こんな長いの最後まで読んでくれるお前だよ。

改めておめでとう。最高の一年を。

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                                                                           2019.5.20