「原体験」には敵わないのか
なぜ中国へ
2019年1月7日〜10日 年末年始のOFF期間、
母校の選手権の応援で東京に行ったり、実家で落ち着いて過ごしていた。
そんな中、岡山で家族と新年を迎えて早々に中国を1人で旅した。
海外は2017年のドイツ以来。
「Days in 🇩🇪」
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2017年8月−10月
このドイツの経験を経ても尚、
さらに地元で家族や友人と過ごせる数少ない時に、
中国に行ったのはなぜだったのか。
*
◆目次
むしろ出発前は…
7日の朝。
昨年10月に取った中国 浦東国際空港へ往復チケットを片手に岡山空港へ。
そう。
中国行きを決めたのは3ヶ月前の俺。
むしろ出発前の俺は行きたくなかった。
でも自分の中で、
今日行きたくない理由より、
3ヶ月前に「とりあえず行こ!」と決めた理由の方が正しい。
俺自身の成長に繋がると感じたことは確かだった。
到着…
@中国 浦東国際空港
現地では基本的にネットはホテルか空港でしかWi-Fiが使えない。
(※ポケットWi-Fiを持参した場合は別として)
空港までホテルまでタクシーを使わず歩くことにした。
ダウンロードした地図を見ながらひたすら歩くも…
しばらく歩くと人が通れる道じゃなかったりで
何度も行ったり来たり。
野良犬もウロウロしてる中。
ひたすら歩き続けた。
無用に命を危険に晒す人間の言う
"スリル"
なんて考えは一切理解できないし軽蔑してる。
なのに。
何をやってるのか…
「memento mori」
やっとの想いで、
自業自得のやっとの想いでホテルに到着。
フロントのおじさんは本当に暖かく出迎えてくれた。
家族にも連絡が取れた。
風呂に入れて、水が飲めて、ベッドで寝れた。
それが有難かった。
「メメント モリ」 : memento mori ラテン語
−死を忘れるな。死を想え。−
それは間違いなく一瞬でも本気で、
死ぬことを想う瞬間があったからだと思う。
その時、
家族や身の回りの人であったり、
日々の生活であったり、
叶えられていないままの夢であったり、
その全てが心から愛おしく想えた。有難く想えた。
それこそが一つの目的だった。
でもそれは弱さであり、
それは未だに
−実際に難が無いと想えない自分である
ということだから。
矛盾
自分の中で葛藤してる矛盾がここにある。
中国に行って変わる自分じゃダメで、
大切なものを失ってからでは遅くて、
死んだらそこで終わりということ。
新潟でも、ドイツでも、
色んなところで経験してるはずなのに、
中国でまたハッとさせられてる自分。
「原体験には敵わない。」
これが一つの仮説。
「全ては意識次第」
それでもそう信じたい。
二日目
二日目は地下鉄を使って市内に出た。
中国 上海では地下鉄は日本と同じくらい発展してる。本数も多い。
ただテロ対策としてどこの駅でも荷物のX線検査を受けることになっている。
電動バイクが沢山走ってる。
基本的にギリギリまで交わしてくれない。
岡部恭英さんと昨年9月にお会いした時に言われた
「中国の勢いは一度生で見ておいた方が良い。」
特に上海ではその訳を幾度となく感じた。
物理的には東京かそれ以上に発展してると感じた。
3日目は隣町の蘇州へ。
新幹線は日本の新幹線とほぼ同じで
早くて静かで快適だった。
40分ほどの場所でも約49元(688円)。
(1元=15円
ホテルは朝食込みで約172元(2,700円)の場所を抑えた。
そこに+航空券。)
(特に市内では現金を使う人は少ない。基本Alipay)
蘇州市 山糖街を歩いた。
水路の街として異国情緒溢れる街。
翌日には帰国するため浦東国際空港近くのホテルへ向かう。
基本的にコミュニケーションはお互い中国語で挨拶して後は拙い英語と文字とジェスチャー。
のはずが初日のホテルのフロントのおじちゃんとのめちゃくちゃ暖かい会話の記憶がかなり鮮明に残ってるから
言葉って何なのか、コミュニケーションって何なのか考えさせられる。
「目を養え」
蘇州火車駅発上海行きのホームへ。
中国はいちいち広くて、ここでも迷った。
中国語が通じないと分かった受付のカウンターのおばちゃんは俺を「No!」と手で払った。
でも、
その後同い年ぐらいの青年に聞くと、
彼は戸惑いながらも携帯片手に親切に場所や時間、遅れの状況まで細かく教えてくれた。
国民性や県民性というものは間違いなくある。
中国人に対して"自己中心的"だと感じる場面は多々あった。
でもそれはあくまで客観的な視点。
本当に中心にいるとその概念すら無い。
それが当たり前で普通。
だけど"自己"の指す領域は人それぞれ。
自分1人を指す人もいれば、
家族の人も、街や国かもしれない、
あの駅の青年のように日本のパスポート片手に道を尋ねてきたやつ
のことでさえ己のこととして捉える人だっていた。
結局、目の前の人と向き合った時、
〇〇人とか〇〇社の人とか、
国籍とか所属とか地位じゃない。
周りのいうその人への評判も関係ない。
もっと言えば
その人自身の語る言葉も関係ない。
その人の行動だけをみることが大切なんだと…
「そいつに対する周りの評判は聞くな。
そして、そいつの言うことも聞くな。
そいつの行動だけをみてお前が決めろ。
目を養え。」
「行動こそ真実」
恩師の言葉の意味をまた違った角度から知れた気がする。
「私たちは中国。」と書いてある。
タフでなければ生きられないが…
新幹線の改札口の様子。
あまり並ぶという習慣はない。
車内でも店内でも大声で電話してる。
基本的に人の目を気にすることがない。
一度ホームで抜かされまくった挙句おじさんにフィジられて危うく乗り損ねそうになった時、
ガチでフィジり返して電車に乗り込んだ。
おじさんはこっちを見向きもしない。
それぞれ電車に乗れた。
中国ではそれだけだけの話だった。
日本ではそんなことは恥ずかしくて出来ない。
我先に…我こそは…遠慮なく…
そんな姿は"美しさ"が許さない。
時にその場所でサバイブするためにハングリーさが求められる時がある。
それは今回みたいに国を跨がずしても、
日常のあらゆるところ場面でそれは起こる。
だけど、その時同時に出会うものがある。
「これ失ったらもう俺じゃないな。」って部分。
「タフでなければ生きられない。
優しくなければ生きる資格がない。」
これはアメリカの作家の言葉。
本当はおじさんフィジることがタフさじゃないはず。
−どんな状況でも自分として生き抜くこと−
それこそがこの言葉の本質のはず。
だからまだまだなんだ。
サバイブとかハングリーとか言ってる俺は。
自分は何者か
別に中国に 自分 はいない。
どこを旅してもそこにはいない。
もし、どこかにいたところで意味がない。
今、ここにいるのが自分で、
新潟での自分こそが今の挑戦のことに変わりはない。
その中で視野を広げるということは
新しい発見や学びを得るため以上に、
現状の中にある有難みや惰性、
本当に大切にしたいものは何か。
それを知るための手段なんだと思う。
自分が何者かを知るめの…
帰国
翌日無事に岡山に帰った。
勝手に1人で行って勝手に1人で帰ってきただけ。
それでも行って、帰ってこれたこととその間にある全ての経験はやっぱり有難いことだった。
@岡山
−帰国した次の日に地元の幼馴染と−
最高の時間だった。
目的
今回の旅に目的地はなかった。
でも目的があった。
目的。
それが何か上手く言葉に出来なくてもいい。
先に動いてしまえばいい。
心が決めることは言葉にできないようになってる。
らしい。
「何しに行くの?」
「何目指してるの?」
出発前そう言われた時はっきり答えられなかった。
「バイタリティと感謝のスイッチを半強制的に押しに行く!」とか答えてた。
◾︎すぐに忘れるかも知れない…
それでも沢山大変なことがあった分、
前より目の前の有難みを感じられる。
でも難があったから感じるのでは浅い。
意識して挑戦して意識しての繰り返し、
そんな有難い人生に。
◾︎相手の土俵やルーツに立って見れば…
その人と自分が"違う"ということは素直に受け入れられる。まずそっち側に立ってみる。今回のように国を跨がずとも日常の全ての人と接する時にそれは言えること。
◾︎俺にとっての旅やチャレンジ、出会いとは…
それは"自分が何者か"を知るための手段だった。それが分かったこと自体が俺が何者かを知ることに繋がった。
自分が何者かを知ることが何で大切なのか?
これからさらに掘り下げていきたい。
意味づけたものが現実、行動こそ真実
やってみた先にこんなことを感じる。
そう自分が意味付ければ、もうそうなんだと。
心で決めて、頭で意味付ける。
「やるの選択からの意味付け。」
今ほどそれを証明できる時はない。
今、率直に感じてるものが多分俺の本質。
これを書いてるのはなぜ?
日本に帰ってこの経験を語って書いて、
その上に生きて強くなった自分のイメージができてるから。
初日のネットも使えず道も分からずマジでやばいと思ってクソびびりながら残したメモ。
4日間終えて、全くその通りの旅になった。
意味付けたものが現実、行動こそ真実。