Shuya Okazaki / Blog✔︎

1997年 岡山県 岡山市生まれ___ | I trust my process /Okayama/Niigata/Tokyo&Kamakura✓

東京と鎌倉、革靴とスパイク。

これから、東京で仕事を、鎌倉でサッカーをします。

あとに続く話はそれ以上でも、それ以下でもなく、

これまでに出会い「お前いま何しとん!」と思ってくれている人に、そしてこれからの出会いに向けて書きます。

僕はこれから、東京で仕事を、鎌倉でサッカーをします。

でも、その言葉はしっくりきません。

卒業といま

 3月に大学を卒業しました。新潟で過ごした4年間が本当にたくさん支えと縁に囲まれたものだったことは、その感謝を込めて、初めに書いておきたいと思います。

 岡山に戻ってしばらく経ち、新潟で生活していたときの感覚が日に日に薄れていく気がします。ただ、毎日のようにどんよりした雲に覆われていた、そのことだけはそれなりのトラウマなのか、地元の青空を見上げてはひとりバカみたいに感動しています。

 東京の広告代理店に就職が決まっていて4月から東京にいるはずが、例に漏れず5月も半分が過ぎた今も岡山の実家にステイホームしています(在宅研修中)。いよいよこれからと意気込んでいただけに拍子抜けしたところも多少ありますが、「働いている」その実感のないまま給料をもらっても満たされないものがあって、働くって何なのか、といろんなことを考えさせられながら、これもコロナがくれた何か意味のある時間だと思います。

とはいえ、もうすぐ東京に発つことになりそうです。

これからのこと

僕はこれから東京での広告代理店の仕事と並行して、

鎌倉を拠点とするサッカークラブに加入させて頂きます。

いろんな縁が重なってここに繋がりました。

そして、もう一度サッカーが好きな人生を生きたいと思い、ここに辿り着きました。

これまでも、これからも、ここにあります。

鎌倉インターナショナルFC

kamakura-inter.com

 上京ができ次第、僕は仕事と並行しながらこのクラブのフロントスタッフとして、選手として本格的に活動していきます。今現在は、岡山で会社の研修の傍ら週末に個別にトレーニングをしつつ、オンライン上でクラブの代表やGM、来季以降の監督(兼CBO)とクラブのビジョンの共有や自身の関わり方を調整させてもらっています。

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 2年前の2018年、大学3年目のシーズン前に新潟から東京に行き東京でスポーツマネジメント研修に参加したその時の講師がクラブの代表の四方さんであり、研修の課題は当時立ち上がったばかりの鎌倉インテルの国際戦略について考えることでした。

「俺、サッカーチームつくったんだけど、海外から集客できるアイディアを考えて6時間後にプレゼン発表してください。いってらっしゃい。」

結果、僕たちのグループは散々の評価で終わります。(笑)

この日同じグループだった2人とは今でも関係があります。

とにかく忘れられない1日でした。

「鎌倉発、日本初。 徹頭徹尾 国際化を意識したサッカークラブ」

僕が最初に代表と吉田GMから鎌倉インテルを立ち上げた想いを聞いたのはこのときです。

このクラブのビジョンが実現したとき、

そこにあるサッカーはサッカー以上のものだと思いました。

ちょうどその日は鎌倉インテル初の公式戦が行われていて、こっち(研修)より試合の結果が気になって仕方ない、冗談ではなかったであろう四方さんの台詞は今もしっかり記憶にあります。研修後、新潟で大学サッカーをしていますと自己紹介して、四方さんとクラブのFacebookをフォローさせてもらいました。それが代表(四方さん)とGM(吉田さん)、そして鎌倉インターナショナルFCというクラブとの出会いになります

  もう一つの出会いはさらに1年前の2017年。僕がJクラブへのインターンやドイツを旅する前に、僕が大学の先輩(新井直人※)に当時何かのきっかけで「俺が高校時代にお世話になった人なんだけど、お前絶対刺激受けると思うよ。」そう紹介された人でした。正確にはその人の記事を紹介してもらいました。※アルビレックス新潟

それが河内一馬監督(2021シーズン〜予定)です。

kazumakawauchi.themedia.jp

フットボール(サッカー)とは一体なんなのか。

この一方的な出会いをきっかけに、それ以降noteや様々な発信を目にする度に、自分の中でその問いは大きくなっていきました。

勝手な使命感

  たしか5歳くらいのとき、3つ上の兄が僕を河川敷のゴールの前に立たせました。容赦なく飛んでくるボールをたまに止めると喧嘩では絶対に敵わない兄がなんとも言えない顔をしながら「よー止めたな。」(よく止めたな)と言ってくれる、それがたまらなく嬉しくて、気付いたらゴールの前に立ち続ける毎日になっていました。それがサッカーとの出会いだったのかもしれませんが、日韓W杯やスカパー!で観たオリバーカーンが先だったかも…

本当のところ、どうやってサッカーをはじめたのかは正直わかりません。

 一つ確かなことは、小、中、高、大学と大人になるにつれて、楽しくて→プロになりたくて→チームで何か成し遂げたくて→人として成長したくて…と気付かない内に自分にとってサッカーのカタチが変わっていたこと。その度に言葉にできない違和感がありました。今思うと『別にそれサッカーじゃなくても良いんじゃね』そんな風に"自分にとってのサッカー"が歪なカタチになっていくように感じていたんだと思います。僕は、はじめたのかどうかもわからないサッカーを何度もやめようとした。そこで踏みとどまる度に、何でサッカーをはじめたのか、きっかけは何だったか、何でサッカーをするのか、そういう問いはただ自分を苦しめるだけでした。高3のインターハイ(vs市立船橋)のたった1試合をきっかけにいくことを決めた新潟で、組織とは大学サッカーとはこうあるべきだ、そんなことを信じてカタチにしようとしたものは、果たしてサッカーと呼べるものだっのか。結局、サッカーが何か、これが自分にとってのサッカーなのか、わからないまま大学サッカーを終えました。人生を振り返ってみて、サッカーよりキツいことがないほど恵まれた時代と環境でここまできた、それでプロになれなかった、せめてこれまでの日々を糧にして社会へ出よう、そう自分に言い聞かせて僕はまたサッカーをやめようとしました。いつものように湧き上がる違和感を無視して、思い残したものは何一つないように振る舞いながら。

2つの点

 それから1ヶ月後が経った2020年の年明け。

「4月から東京でスパイクを革靴に、ユニフォームをスーツに着替えて頑張ります-」Facebookでそんな投稿をしたところ、コメントが入りました。

「修也、キーパー探してるんだけど!」

コメントの主は鎌倉インテルのオーナーの四方さんでした。

その流れでクラブの練習参加をさせてもらうことに。

そのやりとりから数日後、Twitterタイムラインに流れてきたのがこの記事。

 

www.footballista.jp

僕の中で全く別の点と点が繋がった訳です。

その後の練習参加で上京し、四方さんとGMの吉田さんと2年ぶりに再会。そこで改めて色々なお話をさせてもらいました。東京での生活さえ右も左もわからない中で、さらに神奈川にあるクラブにどこまで関わることができるのかは本当にやってみないとわからなかった。ただ、この2つの点がつながったとき僕がこの道を選ばせてもらうことは必然でした。

岡山、新潟、東京…今までに出会った誰ひとり欠けても、東京で仕事しながら鎌倉でサッカーをするという道は拓けなかったと思います。

最後に

ということで、僕は東京で仕事を、鎌倉でサッカーをします。

で、最後にその言葉がしっくりこない理由を書いて終わりたいと思います。

拠点はそれぞれ東京と鎌倉にあるし、職場や仕事をする中で、鎌倉で、そこにある場所やそこにいる人との出会いが今は正直1番楽しみです。それにサッカークラブにとってクラブがある街というのはクラブそのものだと思います。僕がしっくりこないというのは東京で仕事、鎌倉でサッカー、そういう枠に囚われることです。何しろ「インターナショナル」です。国や地域、文化や言葉、立場や役職…いろんな境界線を越えて何かを成し遂げていく、そういうビジョンの下にある挑戦だと思っているからです。

 今、僕はピッチ(サッカー)から社会に出ようとは思いません。スパイクも革靴も履きます。サンダルもブーツも必要なら下駄でも安全靴でも履きます。僕は社会の中で自分が何者かを知って、それを表現していきたくて、サッカーはその手段の1つです。そういう意味では「サッカーをします」というのも今は僕の中で違うんだと思います。あの日、サッカーは気付いたらそこにあった。そしてサッカーは今日もどこかで誰かを熱狂させて、今日もどこかで誰かと誰をつないでいる。サッカーは僕が知る以上のもので、だからこそ僕は例えどんなカタチでも、どんなところからでもサッカーに関わっていたい。

 

そうやって僕は僕らしいと信じられることを続けていこうと思います。

誰しもそうであって欲しい。

そんな勝手な使命感をもって。

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