Shuya Okazaki / Blog✔︎

1997年 岡山県 岡山市生まれ___ | I trust my process /Okayama/Niigata/Tokyo&Kamakura✓

「失った」のなら… / 3月

 

何度もそう叫んできた。

 

そこには何の疑いもなかった。

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◆目次

 「失う」とは

「失ったら 取り返せ!」

 

ボール を取られたままでは何もできず、

点 を取られたままでは負けるのがサッカー。

失ったら、取り返すこと

自分が人生で最も多くの

時間と情熱を捧げられてきたもの。

そこで真実と言い切れるものは、

少なくとも自分にとっては

そこだけに留まらないもののはず。

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失うとは何なのか

例えば…

小中学校が同じで9年間 毎日 側にいても、

ほとんど話したことがないような関係だった人。

その人と話せないことや会えないことに対して

「失った」とは感じない。

一方、

それと比べたらもっと短い時間しか一緒にいなくても、

多くの思い出のある人がいたとする。

その人と話せないことや会えないことに対しては

「失った」と感じる。

どちらも 過去にあって、今はないもの。

確かにどちらも失っている。

それなのになぜか

一方は失っておらず、一方は失っている。

「失った」かどうかを決めるのは

それが今、あるか、ないか ではなく、

それを今、感じるか、感じないかで、

「失う」とはその対象が何だとしても、

極めて主観的なものなんだと思う。

時の流れの中で無くなったものの中でも、

それすら気付かないものもあれば、 

自ら捨てたものもある。

「お前変わったな。」

よくそう言われる。

だけどそこに一喜一憂することはない。

(…ように努めている。)

「変化」に対する客観的な声よりも

「失った」という主観的な感覚、

そしてそれがなぜなのか?という自らへの問い。

そっちの方が大切なのではないか。

変化の中で「失った」と感じるものがある。

よく言われる

自分らしさ、このチームらしさ、日本人らしさ etc

そんな「らしさ−」や「個性」は

自分だけの世界で追求するものではなくて、

色んな変化や新しい経験や繋がりの中で、

"残るもの"なのではないか。

これはドイツや中国で…

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(ベルリンの壁)

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(中国・蘇州の駅)

 

「−外国人になる経験−」   (イチロー)

 

その中で特に強く感じたし、

岡山から誰も知らない新潟に出た時もそうだった。

 

▫︎「失う」とは…

元々あったものがなくなること。

それは物質的な事実ではなく主観的な感覚であり、

自分が何を「失う」かは何を大切にしているかということ。

 

失ったり、失いたくなかったりする過程で自分が何者かを知ることがある。

 

その時

「失った」その時、俺たちはどうすべきか。

これは先の定義があった上で答えはシンプル。

 

「取り返すべき」

 

 サッカーにおいて「失う」瞬間。

ボール を取られた…

点 を取られた…

ここでも過去にあって今はないという意味では

失ったものは他にもあるはず。

それでも「失った」ものは取り返さなければならない。

ただそこで、

全く同じものはもう取り返せない時がある。

仲間 が退場になった…

その試合で逃した勝ち点 …

それでも前に進むためには、勝つためには、

「失った」以上、たとえ全く同じものは返らなくても、

その分を取り返す必要がある。

いや、そもそも

「失った」ものと全く同じものなど取り返せる時などない。

ハーフラインで失ったボールを

自陣のペナルティ付近で取り返しても

それは全く同じ状況を取り返した訳ではないし

0−2 の状況から2点取り返して 2-2 にしても

0-0 と同じとは言えない。

むしろペナルティまでダッシュで戻る中で、

2点取り返すためにギアを上げた中で、

当然、精神も身体も疲労する。

つまり失ったもの取り返すために失うものもある

 

取り返すことで失うものより「失った」もの。

それが大切と思えるか。

取り返すためには先ず猛烈に「失う」必要がある。

「失った」と感じるからこそ、

その想いが強ければ強いほど取り返したい。

その根底には、

それ自体がそもそもどれだけ

自分にとって大切なものだったのかがある。

「失う」時というのはある意味試される瞬間であって、

その選手その人の本質が垣間見える瞬間ではないか。

失っても取り返さない、そこにトライしない、

平然とすらしている…

それによって「失う」ものがある。

周りからの信頼か、時として自分そのものか。

むしろ失うことより、

ボールを失っても点を取られても平気な姿や、

よく見かける大人の

「あの頃の自分なら…。」 「丸くなった。」

と今に純粋な熱を持ちきれないこと。

そういう執着のなさやその姿によって

人はより大きなものを失っている。

 

振り絞った…

「失う」とは主観的な感覚であって、

自分にとって大切なものしか「失う」ことはない。

丸くなった ことも

それが自分にとって必要な「変化」で、

堂々と「これは成長だ」と言えるならそれで良い。

でももし

あの頃の自分 を「失った」と感じているのなら

それは取り返すべきだ。

「失った」ものと向き合うことは

同時に「得たい」ものと向き合うこと。

常に自分の中の天秤にその二つが乗っていて、

光と陰のように表裏一体のバランスをとってる。

逆のことも言える。

何かを「得る」時には、

同時にそれを失う怖さも手にしている。

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これまでの言葉は全て…

ワンピースで最愛の兄を失い絶望するルフィーが

「失ったものばかり数えるな!無いものはない‼︎
確認せい!お前にまだ残っておるものは何じゃ‼︎」

とジンベエに投げかけられ、

涙ながら震える手で一人一人指で数えてこう叫ぶ。

「仲間が…仲間がいるよ…‼︎」

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「何で自分がこんな目に…」

「こんな時にアイツがいれば…」

「この環境じゃ無理だ…」

そんな時にいつも大切なことを教えてくれるシーン。

無いものや失ったものをいくら数えても、

何も変えられず、何もカタチにできないまま、

時間だけが流れて、終わる。

大学生活、大学サッカーの残りの8ヶ月も、

その先もずっと。

今ここ(新潟)に何があるのか、何ができるのか。

それこそが大切なのは分かってる。

だからずっと、

過去にあるものを懐かしく、無いものを恋しく

思う自分を否定してきた。

ただ、

それでも取り返したい。失ったものがある。

「あの頃の自分なら…」と。

「本当はこうじゃない…」と。

これまでの言葉は全て、

現状の自分のことであって、

これまでの言葉は全て、

失ったもの、今ここに無いものに、

執着する自分を認めるためのもの。

 

 サッカー」

俺にとってサッカーは

1本のセーブや仲間のゴールへの喜び、

緩いプレーをした仲間や不当な判定への怒り、

チームとそこに関わる全て人で共有する緊張や高揚。

練習も試合も関係なく、

プレーする時も、観る時も、

そこで感じるものを表現できるもの。

そしてそれこそが、

いつだって非日常なものであるべきサッカーを

サッカーたらしめるもの。

その1つ1つに対して一喜一憂しないのは

そこで感じる感情を表現しないのは

きっと大人になったからではない。

もしも

「サッカーは子ども大人にし、

                    大人を紳士にするスポーツ。」

という言葉がそんな意味のものなら俺は否定したい。

天か地かを分ける一瞬一瞬を、

仲間と相手と審判と観客と分かち合い、

その中で知る 振る舞いというものがある。

そうことではないのか。

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https://youtu.be/BBtfGncukZc

天か地かの運命を乗せること。勝つことへの執着と

その過程で感じる感情の表現と共有。

それができないなら、それを否定するなら。

それを抑えなければいけないなら、

それを心から分かち合えないなら、

それは「サッカー」ではない。

チームとして勝つ為には 

「俺にとっては−」のものではいけない。

自分たちはどういうチームになるか、

自分たちはどういうサッカーをするのか、

その前に、サッカーとは何か。チームとは何か。

それを共有しなければいけない。

  

感じることを表現できなくなっていた。

それがサッカーという 非日常 に

留まらないものだと気付いた時、

俺は猛烈に 失った。

 

サッカーがしたい。

 

「失った」のなら…

 

取り返さなければいけない。

 

 

4月へ

最後のシーズンが開幕し、

新たな環境を掴むための篩にもかかるこの月。

吉田松陰曰く、人にも四季があるらしい。

ラソン高橋尚子の恩師はこう言った。

「何も咲かない寒い日は、

下へ下へと根を伸ばせ。

やがて大きな花が咲く。」

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何も咲かない寒い日がひたすら続く中で、

ただ下に下に伸びるだけでは意味がない。

まさにこのブログと同じ。

 

結局、勝たなければいけない。

 

何度ピッチに立てて、何個タイトルを残せたか。 

 

その先にしか残らない。

 

大学サッカーの価値。組織のマネジメント。

それを社会につないでいくこと。

全部大切だけど、

先ず、「サッカー」をしよう。

サッカーをする「チーム」で在ろう。 

 

「つなぐ」ために。

                                                            2019.3.31

 

 

 

〈3月の学び〉

「一月往ぬる二月逃げる三月去る」

と言うけど何だかんだあっという間の3ヶ月。
中でも学び得るものが本当に多かった3月。

(本来こっちを残すためのブログのはずが…笑)

大学スポーツ↔︎ビジネスや教育との繋がり。

残り8年の20代の使い方。

就活を軸にそこと向き合う時間が多かった。

3/2 芦名勇舗さん

3/9 福山敦士さん

3/10 ソーシャルビジネスグランプリFacebook

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3/22 

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「− 秤は自分の中にある。」

3/25 Criacao Athlete College 

3/26 人生初のブラインドサッカー

 

何としても、血の通った時間を取り戻したい。

振り返れば改めて本当に有難い機会に恵まれて。

感謝、忘れずに。