Shuya Okazaki / Blog✔︎

1997年 岡山県 岡山市生まれ___ | I trust my process /Okayama/Niigata/Tokyo&Kamakura✓

始め続けるために / 1月

 2019

こんな格言がある。

「人は1年でできることを過大評価し、

       10年でできることを過小評価する。」

                                

2019年が始まった。

この1年を

部長として、「俺らの代は…」

選手として、「集大成の1年…」

就職を前にして、「ここで将来が…」

こんな風に捉えたくはない。

そしてこの先もずっと

目の前の現実を、

そんな短期または単年度の思考で捉えたくはない。

それよりも今から「10年先」

その時 このチームはどうなっているか。

ゴールを背にボール追った日々の最後はどう見えるか。

俺はどこで何をしてる自分になれているのか?

それを創っているのが他でもない、

この1年であり、この瞬間。

そんな風にこの先の1つ1つの課題に向き合っていきたい。

 

 ◆目次

 Carpe diem

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2018年 (21歳)

残念なことに今日という日は1年前の想像の範囲内だ。

それはこの1年の中にまだまだ無限に成長の余地があった中で、突き抜け切れなかった自分の弱さ。

それでも本当に有難い経験を沢山積ませてもらった。

でも多分1年で変わるものなんて知れてる。

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2009年 (11歳)

今日という日を10年前には想像出来なかった

想像を越えられなかった…の方が正しい。

その時の想像では俺はプロになってたはずだ。

それでもその中に語り切れない程の経験と時間が詰まってる。

その全てが本当に有難いものだったと思う。

10年あれば とんでもないところ にいける。

いや、次こそは。

そのとんでもないところを創っているのは他でもない。この1年であり、今この瞬間。

だから俺はラテン語のこの言葉が好きだ。

Carpe diem 「今日を捉えろ」

 スピード感

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その時の直感的に今の自分に必要だと感じたもの。

「スピード感」

決断、判断、行動、返答、プレー…

歩くスピードにまでこだわる。

全ての速さと早さを変えていく。

決して落ち着きのない人間になりたい訳ではない。

これまで「スピード」と「質」は

どっちをとるか? と考えてきたが、

その両方を取りにいった時に工夫が生まれる。

例えば

質が悪くて速いパスは誰でも蹴れる。

質が良くて遅いパスも誰でも蹴れる。

それよりも、

質が良くて速いパス。そしてそれを蹴るための工夫。

必然的に「量」が詰まってくる。

そこに成長がある気がする。

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同じ質量でも密度が濃いものが重いように、

同じ時間でも密度が濃いものに価値がある。

そう思った。

時間の密度を変えていく。

時間における密度は煮詰めれば「スピード」

10年の時間を意識した時、

今の自分に必要なテーマだと確信してる。

10年を考えた時に出た答えが

「スピード感」

やっぱりあらゆる事は逆説の中にあると思う。

 

真実

これ自体、俺1人のただの戯れ言と言われても

誰も否定できないことがある。

 

人は必ず死ぬ。

 そしていつ死ぬか分からない。

 未来(生き方)は選べる。

 

何を描こうと10年後がある保証はない。

それでも今日を輝かすために描き続ける。


毎月を振り返る

自由な時間が与えられた中で

大きな意思決定の多い年でもある。

その時間という資産を何に使って、

何を学んだのか。どう成長したのか。

シーズンの終わりや年末に振り返りをしてきたものを

1ヶ月単位で区切っていくことで

過程をオープンに刻んでいく。

1年後には大きな財産になってるはず。

今年だけを考えれば欲しいのは結果。

ただもっと長い目で今を振り返った時

この過程にこそ価値があるはずだから。

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「1月」

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2019年

今年はここ新潟で過ごす最後の1年。

同時に18年目にして、

 

常に生活の中心はサッカー!

 

そんな日々との別れの年となる。

その名残惜しさのせいか。

単なる慣れなのか。

連日降り積もる雪も、

地味な走りもそれほど苦ではない。

 

「それ」を意識し出した途端

 終わり。

 

それを意識し出した途端、

目の前の現実がやたらと意味を持ち出す。

だったら最初から…と思いながら旅に出た。

−「原体験」には敵わないのか−

http://shuya-31.hatenablog.jp/entry/2019/01/15/135106

それなのに新潟に戻って1日のスケジュールが

「オフ」 「TR 16:30~」

という日が約2週間。

新チームの立ち上げに際する

ミーティングを重ね、

その度に準備や情報収集などを行い、

前に進められたことも確かにあった。

だけどそれよりも、

もっと成長出来た。もっとやれる事はあった。

その感覚の方が圧倒的に大きい。

後にも先にもこれほど時間という資産を

贅沢に使える年はない。

 

怠惰というもの

「私は年をとるにつれて、

幸福の反対を不幸だとは思わなくなった。

幸福の反対は怠惰というものではなかろうか。」

                            文芸評論家 : 亀井勝一郎

先週、

昨年末からの選考を経て、

25日に最終面接を受けた会社から

不採用のメールをもらった。

これは確かに失敗であり不幸な出来事ではある。

ただそこには学びがあった。

「採らなかったの後悔させるくらい成長しよ。」

そんなモチベーションにすらなってる。

失敗や不幸な出来事は後付けでプラスにできる。

ただ、

昼まで寝て、飯食って、練習して、寝る。

だけ。

そんなまさに"怠惰"に過ごした時間や生活は

どんな後付けも出来ない。

これこそが本当の意味で成長や成功から

最も遠いものだと改めて感じた。

この1年。

いやこの先 何度でも立ち還るべき言葉。


☑︎ 「成功の反対は怠惰」

・もっと細かいスパンで計画立てる。

×              午前           午後                夜

⚪︎ 7時~9時~12時~15時~18時~21時~0時

 

言語化という罠 

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「言葉」は思考するために作られ、

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やがてコミュニケーションにも使われ、

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文字に起こして記録にも使われるようになった。

…らしい。

「言葉」の起源の話がしたい訳ではない。(できない) 

またこれも単なる一説に過ぎない。

ここで言いたいのは、

考えること。話すこと。書くこと。

これらが全て繋がってるということ。

誰かと話したり、

こうして想いを文字に起こすことで、

自分が考えていることが整理されていく。

頭がクリエイティブに働く。

俺はこれをいわゆる言語化だと定義してる。

 

 目的はどこか

例えば、

就活において、

−自分が過去、現在、未来をどう捉えているか。

その理由。

それぞれがどう繋がってるのか−

チームとして

−理念の定義や達成までのプロセス−

これらを言語化することはとても大切だけど

それ自体が目的じゃないということ

あくまで、

就活なら、

✔︎自分という人間を理解してもらうこと。

チームとしては、

✔︎理念や取り組みの先にあるビジョンや目標が達成されること。

それが本当の目的

はじめの定義に戻れば、

言葉はツールとして生まれたもの。

どんなに綺麗に頭の中の言葉の並びを整理して

それを口にしても、

伝わらなければ意味がない。

パスの例を繰り返すと、

どんなに磨きのかかった質のパスでも

繋がらなければ意味がない。

そしてパスもゴールを目的とした手段であるように、

伝えることも何かをカタチにするための手段。

 

そして言葉で伝えることは表現の一部に過ぎない。

行動であったり、姿であったりも、

深く見つめていく必要がある。

 

☑︎言語化よりも伝えることを意識

☑︎「カタチにしたい何か」を皆んなと共有する。

☑︎まじの方のパスの質、スピードを上げる。

 

2月へ

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家族と過ごせた正月。

中国への旅に始まり、

新潟に戻り、

仲間たちと共に最後のシーズンに向けて歩き出せた。

怪我や病気もなく過ごせた有難い1ヶ月だった。 

しっかり噛み締めて2月も駆け抜けよう。